SNSを眺めていると、時々、そこに書かれた言葉が自分に向けられているように感じることがある。
誰かの何気ない一言、写真に添えられた文章、歌詞の引用などが身近な出来事に触れると、それが自分へのメッセージだと思い、励まされたり、期待したり、ときには傷ついたりする。
けれど、後になって、それが個人的な妄想に過ぎなかったと分かったとき、そこから受け取ったものまですべて無意味になるのだろうか?
この経験は、三つの段階に分けて考えることが出来ると思う。
第一に、「これは自分へのメッセージだ」という解釈がある。
これは外の世界についての判断であり、事実とは違っていた誤解なのかもしれない。
第二に、「その言葉を見て、自分は何を感じたのか」という経験がある。
嬉しかった、救われた、怖かった、悲しかった
たとえメッセージの宛先が間違えていたとしても、そのとき自分の中に生まれた感情まで存在しなかったことにはならない。
そして第三に、「なぜ自分は、その言葉を自分へのメッセージだと思ったのか?」という問いが残る。
たとえば「まだ諦めなくていい」という言葉を自分への励ましだと思ったのなら、実際には誰かから励まされていたのではなく、自分自身がその言葉を必要としていたのかもしれない。
ここで問いの方向を変えてみる
「あの人は私に何を伝えようとしていたのか?」ではなく、「なぜ私は、その言葉からそれほど強い意味を受け取ったのか?」
そこには、自分でも気づかなかった願いや恐れ、その時の期待や孤独が映っている。
それは、宛先を間違えて受け取った手紙のようなものだ。
けれど考えてみれば、SNSに流れている不特定多数に向けて書かれた言葉には、そもそも決まった宛先などないのかもしれない。
手紙とは違い、誰かに向けられたものかもしれないし、誰にも向けられていないものなのかもしれない。
そこから受け取るものがあるとすれば、それは世界から送られてきた秘密のメッセージではなくて、
宛先のない言葉に自分を重ねた、その時の自分自身についての理解なのだと思う。
エッセイ:宛先を間違えた手紙
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