糸井重里さんのコラムで、ドラッカーの「顧客の創造」という言葉を読んだ。
顧客と聞くと、普通は商品を使う人、食べる人、読む人、聴く人を思い浮かべる。
けれど、実際の仕事では、最初に向き合う相手がその人とは限らない。
たとえば製麺所は、おいしい麺を、最終的には食べる人のためにつくっている。
しかし、製麺所から直接麺を買うのは、ラーメン屋やうどん屋だ。
だから製麺所は、味だけを考えればよいわけではない。茹で時間、保存性、発注ロット、原価、配送、スープとの相性、厨房での扱いやすさまで考える。
食べる人を見ていないのではない。食べる人へおいしいものを届けるための工夫なのだろう。
創作活動も、たぶんそれと少し似ている。
曲や文章の先には読者や聴き手がいる。だが、その前には出版社、企業、編集者、メディア、
配信サービス、イベント主催者などがいる。
彼らは見えない障害物や壁ではない。作品を選び、整え、別の価値と結びつけ、
次の場所へ運ぶ媒介者でもある。
そして現実には、一人や一社がいくつもの顔を持つ。
出版社は顧客であり、共同制作者であり、流通者でもある。
ドラッカーの言葉は、本来、企業の目的は組織の内部ではなく、
外部に価値を生むことにある、という意味なのだという。
ここから先は、その言葉から僕が勝手に話をふくらませたものになる。
高度に分業化された社会では、その「外部」は一人の消費者だけでできているわけではない。
条件を定めるシステムや制度、価値を認める人、加工する人、運ぶ人、そして最後に受け取る人がいる。
かつて、後に名を残したコピーライターは、企業や広告代理店との会議の先に、
「大衆」や「時代の気分」を見ようとしていたのかもしれない。
それは、広告費が潤沢で、少数のテレビや雑誌が大きな影響力を持っていた時代だからこそ可能だった仕事でもある。
それでも、生活者像を描くだけでなく、新しい生活様式そのものを提案する仕事はあったのだと思う。
現在の個人クリエイターは、会議室ではなく投稿画面の前にいる。その先に誰かがいるはずなのに、
間にはアルゴリズムがある。
投稿時間、文字数、動画の冒頭、更新頻度、反応率。製麺所が発注ロットや配送、
厨房での扱いやすさを考えるように、創作者もまた、作品が届くまでの条件を考えなければならない。
そうしたものを意識していると、アルゴリズムが好みを持つ顧客のように感じられる。
けれど、アルゴリズムは顧客ではない。何かを欲しがるわけでも、作品に満足するわけでもない。
それは、プラットフォーム企業が定めた条件を実行するシステムであり、制度である。
ただ、制度は、それに適応する者にとって顧客の顔をして現れる。
麺を買う人と、麺を食べる人は違う。
けれど製麺所は、目の前の店と話しながら、
その先で麺をすする、まだ会ったことのない人の顔を想像している。
今の時代の創作も、たぶんそのようにして社会へ出ていく。